「笑う」ということと「笑われる」ということ
理事長 五十嵐教行
最近、自分が笑われるという体験をした。おかしなことを言って笑わせたのではなく、私の言い方がおかしかったということで、その人たちは笑いころげたのである。自分の何がそんなにおかしくて彼等を笑わせたのか、実はその時、私にはよくわからなかった。しかし、彼等が笑っている間、私はなんとも言い難い孤立感、疎外感、そして軽い屈辱感を味わっていた。
「笑い」にはいろいろな種類があり、必ずしも人はおかしいときに笑うだけではない。嘲笑といった「笑い」もある。落語や漫才などで人を笑わせようとするあまり、自虐ネタを披露したり、誰かをおもしろおかしくこけおろすなどといった手法をとることがある。たいていの場合、それ自身にはおもしろい要素は少なく、雰囲気で笑わせていることが多いように感じる。その時、笑っているこちら側は、その人よりも優位に立てているような錯覚に陥っている。
私が教えている学生の中に東北出身(青森や岩手など)の学生がいるが、彼等の一人がこう求めてきた。「札幌に来て、しゃべったら、みんながオレのしゃべり方がおかしいと笑い出して・・・。だからあまりしゃべりたくないので、自分に講義中あまり当てないでほしい」。彼が生活してきた土地ではふつう(つまり日常会話)にできたことが、札幌では笑われてしまう対象になってしまったので、この申し出(?)はこうした現実に対する彼の一つの対応方法なのだろうと思えるのだが、それが「話さない」ということしかないのであれば、それはとても悲しすぎる。
おかしいから「笑う」と人は言う。自然と笑っちゃうのだから仕方ないとも言う。おかしいのに笑ってはいけないのかと反論もする。しかしこの論法に、私は違和感を覚える。なぜならこの論法からは、笑われた人に対する配慮が全く感じられないのだ。
「笑う」という行為は、確かにその人の気持ちの表れだからそれを制限することはだれにもできないことなのかもしれない。でもだからといって、だれかを笑っていいということにはならないと思う。配慮、気配りが大切なのではないだろうか。いわれなき笑いは「嗤い」に通じるものがある。差別や偏見といったものは案外こんなところから始まっていくのかもしれない。