「少ない」ということ
理事長 五十嵐教行
筆者が住んでいる近くの小学校は、このわずか数年の間に各学年1クラスずつ減り、現在ほとんどの学年が2クラスずつで編成されている。もっとも親の引っ越しに合わせて在籍する児童の数が変動するから、春の時点で在籍予定児童数が多ければ3クラス編成になったりすることもある。今年の1年生は3クラス編成だと聞いた。しかし3クラス編成になったからといって、1クラス分の児童が増えたわけではないだろう。かろうじて3クラス編成にできるほどの児童数を確保できたからなのではないかと思われる。だとしたら年度の途中で違う学校に行ってしまう児童が多ければ、翌年度には2クラス編成になってしまう可能性がある。クラス編成が安定しないのは、定住する人たちの移動(引っ越し)が多い地域にある学校だからこその宿命なのかもしれない。
さて、そこの学校では1クラスが30人程度の規模だから、1クラスだけでは男女混合にでもしない限りサッカーも野球も成立しない。そこで体育などの授業は2クラス合同で行うのだそうだ。
学校全体での児童数が少ないということは当然教師の数も少ないということになる。教師とウマが合わないと厳しい状況になりそうだ。限られた人間関係の中で6年間過ごす彼らのことを想うと、さぞかし窮屈な思いをしているのだろうとお節介ながら感じてしまう。 このような話によく似た話を最近耳にした。グループホームだ。
「少人数でアットホーム」が売り物だが、それが諸刃の刃(もろはのやいば)になっているというのだ。そこでの人間関係がよろしくなくなった時に、狭い空間では苦しくなってくるというのだ。もっとも、一緒に生活しているのだから、うまくいかないことがあるのはむしろ当然だといえる。それでも利用者にとってみれば、逃げ場の少ない環境なだけにシビアな問題だろう。うまくいっている時はいいのだが、うまくいかなくなってきた時にどう対処するか。
以前筆者が勤めていた施設のベテランソーシャルワーカーは、見学者からの「けんかなどはあるか、そのときはどうするのか」という質問にこう答えていた。「そりゃあ、ありますよ。ない方が不思議です。あるのが自然ではないですか。だから私たちが一生懸命関わるのです」と。
私たち援助者の日頃の個別援助のあり方が問われてくると思う。まちがっても職員との関係で利用者が厳しい状況に陥ることがないように細心の配慮が必要だ。教師も私たちも一人ひとり、一つひとつ丁寧に関わることが大切なのだと思う。たとえそれが大変であったとしても。