魂を込めて作る
理事長 五十嵐教行
先日、とあるラーメン屋に行ったときのこと。その店の外には「魂込めて作ってます」という大きなのれんがかけられていた。メニュー表にはその‘魂が込められたラーメン’なるものがあって、「ソウルフルラーメン」と名付けられていた。そのラーメンの写真も載っていた。他のラーメンと何が違うのか興味がそそられ、他のラーメンの写真との違いを見比べてみたら、「ソウルフルラーメン」には、その店で用意している具材がすべてのっかっていることがわかった。
私はカウンターに座り、ふつうの醤油ラーメンを注文し、できあがるまでの間に、そもそも「魂を込めて作る」とはどういうことなのだろうかと考えてみた。自分が納得できる答えはなかなか浮かばない。そこでこの問題を整理するために、反対のことを考えてみた。つまり「魂を込めないでラーメンを作る」とはどういうことなのかと。思わず可笑しい気分になった。なぜならお金を取って客に食わせるラーメンを、ただ作ればいいのだと考えて客に出しているのだとしたら、なんだかずいぶんと乱暴な調理人に思えてくるし、客商売として正しくないように感じられたからだ。
「魂を込めて」とは言わなくても、「心を込めて作った」というセリフはよく耳にする。 食べてくれる人の顔を思い浮かべて、そしてその人の口に合うようにといった願いを料理に込めながら、一つひとつ丁寧に作ったときに出てくるセリフだと思う。作り手が受け手の味わうであろう様をことさら具体的にとらえているのだろう。受け手の側に立って考えているとも言えそうだ。ただし、商売として考えた時には、客へのおもてなしの一つとして心を込めて作ると言うことは、ごく当たり前のことだと言えないだろうか。
さて、さきほどのラーメン屋の話に戻る。あえて外を歩く客の目に飛び込んでくるほどの大きな文字で、「魂込めて作ってます」とのれんにしなければならなかったそのラーメン屋店主の思いについて考えてみた。きっと彼の決意表明なのだろう。どんなに忙しい時であっても、どんなに嫌な客であったとしても、「自分は手を抜いたり、投げやりな態度で作ったりしないぞ!」ということなのかなあと。だとすれば、消費者の立場から一言言わせてほしい。そんな決意表明のようなのれんは客には見せず、厨房の中に貼ってもらいたいと。客には関係のない話だからだ。
そうこうしているうちに、注文したラーメンが静かに目の前に置かれた。何も言わずに彼は置いたのだ。そういえば、と私は気がついた。彼は私が入店した時も静かだったし、注文した時も頷くだけだったし、そして今ラーメンを置く時も何も言わなかったのである。
ひょっとして、彼はラーメンを作ることが好きなのではないか、もしくは修行か。客に愛想を言ったり食わすことよりも、なによりも「作ること」それ自体に意味があるのではないか。なるほどここはラーメン道の道場なのだ。商売ではないのだ。
私は一人で勝手に妄想した。せっかくだからと思い、そうした雰囲気を味わい、神聖な道場で静かにラーメンをすすったのであった。