「左利きであること」を意識させられる
理事長 五十嵐教行
自分が「右利き」であると気がついたのは、左手で字を書いている人を見た時だった。その記憶がいつの頃のものかハッキリしないが、おそらく小学生の低学年の頃だったのだろう。自分の周りにいた人は箸を持つのも字を書くのも自分と同じ右手だったから、左手で字を書く動作を見て、とても不思議な光景を目にしたような印象が残っている。「ぎっちょ」「左ぎっちょ」という言葉や左利きを右利きに直すように強制する話しを耳にしたのも同じ頃だったろう。左利きは右利きに直さなければならないものだと理解し、子どもながらに自分がたまたま右利きでよかったなあと思ったものだ。
大学生になって教育実習を経験したが、その時に聞いた左利きの教育実習生の話。研究授業と合評会の日。研究授業とは、教育実習生の授業をその学校の教員などに公開するもので、合評会では、校長や教頭、指導教諭のほかにその研究授業を見学した先生が参加し、感想や意見などを述べるものである。教育実習生にとって、研究授業は自分の教育実習の集大成ともいえるものであり、合評会ではそれを評価されるわけだから、極端に言えば自分が教員としてやっていけるかどうかの分かれ目にもなりそうなものだ。左利きの教育実習生の合評会では、校長先生から「左利きで黒板に字を書いていったが、なんだか書き順が違っているような感じがした。板書するということは、字の書き順も教えることになるので、生徒の手本とならなければならないと思う。右手で書くようにしてもらいたい」といった意見が出たという。
さて、あらためて私たちの身の回りにあるものを眺めてみると、右利きの人が使用することを考えて作られたものが多いことに気づく。たとえば電話機。右手で受話器を取って、左手で番号を押そうとすると受話器のコードが邪魔になる。ダイヤルを回す旧式タイプならなおさらで、ある日、左手で受話器を持てば邪魔にならないことに気がつき、そして自分の仕草が左利きであったことに気がついたのである。気がつくまでの長い間、電話を使うたびに何となく使いづらいなあと感じていた。どうやら私は時々左利きになっているようだ。切符を持つ手が左手であるばっかりに、自動改札口では切符を右手に持ち替えなければならない。自動販売機の前では、右手にコインを持ち替えなければならない。なんだか不便だ。きっと左利きの人は、私よりもたくさんのことに不便さを感じている(感じてきた)のではないかと考えると、ノーマライゼーションとは何かと考えてしまった。
池田事務局長は、パソコンのマウスを左手で操作する。右手で操作していた頃は使いづらいと話していたが、ある時左手で操作してみたら実に快適だったと喜んでいた。以来、彼女のマウスはキーボードの左側に置かれている。こんな発想がノーマライゼーションを実現させるのかもしれない。
私は執筆時、喫煙をする。この原稿を執筆している時に気づいたことを一つ。愛用のジッポライターは絶対右利き用だ。だってお気に入りの柄が片面にしかないのだから・・・。