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センターニュースNo.29

巻頭言

「さだまさしの『雨宿り』に見る私たち日本人の祈りの姿」

まさかこの2 1 世紀の時代に、「アマビエ」という妖怪を探し出し、その力にすがろうとする人々の様子を見るとは思いもしなかった。新型コロナウイルスによって私たちの生活は一変した。それは、私たちの目には見えず、有効な対策がまだ確定していないこともあって、どれだけ私たちの不安と苦しみを大きくさせていることか。

だから、私たちは祈るのである。平安が訪れますようにと。私たちの祈りは案外強い。「一念岩をも通す」と言うくらいである。よって、“ 祈りの力” を信じている人は多いだろう。そうした心的背景が、冒頭の「アマビエ」の登場につながったのだと思う。

ところで、さだまさしの『雨宿り』という曲をご存知だろうか。「苦しい時の神頼み」が主たるテーマである。この歌の世界は、こうだ。神様の存在を信じていなかった頃の「私」が、ある雨降りの日に素敵な彼に出会う。彼との出会いは、たまたま同じ場所で雨宿りをしたというほんの通りすがりのものであったが、それは“ もう一度会いたい” と願わせるほどの一目惚れ。そのもう一度会いたいという願いが「苦しい時の神頼み」なのである。

さて、「苦しい時の神頼み」をした「私」は、その彼に再会できるのである。神様は願いを見事に叶えたのだ。しかもそれは初詣。まさに神様の目の前でと言うべきか。しかも厳かなハレの日に劇的に再会させてくれるのである。さらにその再会のキッカケは、「神様、さすが! 」と言いたくなるほどだ。初詣で大賑わいの境内の中にあって、ちょっと押されたくらいなら気づかないかもしれない状況下でも、二人が絶対に気づくようにと、神様は彼に「私」の晴れ着の裾を踏んづけさせて謝罪させるのである。そのことで、二人が同時に「あの時のあの人だ! 」と気づかせるわけだから、なんという力業であろうか。

このようにして「私」の再会したいという苦しい時の神頼みは叶うのだが、2 点ほど指摘したい。まずは、苦しい時の神頼みについてである。この願いは確かに都合が良いとも言えるが、実は苦しいからこそ、けっこう一途で力強い祈りであると言える。だから、神様に届くし、神様も思わず叶えてあげたくなってしまうのではないかと思えるのである。

次に、叶うキッカケが「私」の晴れ着の裾を踏んづけられるというところだ。つまり「受け身である」ということ。彼が踏んづけるという行為は、もちろん彼自身には意図的なものはなく、誰の着物の裾を踏んづけてもよかったはずだったのに( もっとも踏んづける行為は良くないのだが)、よりによって「私」の晴れ着の裾を踏んづけてしまうわけだ。「私」のママや兄貴は、そんな奇跡的な偶然が降りかかるとは信じられないとしているが、そこにこそ神様のお働きがあるのだということをこの曲は教えていると考える。そして、私たちもその再会の奇跡を疑うことなく、素直にその曲の世界観を受け入れている。神様は確かにいると信じているのだ。

生きていると思いがけないことがよく起きる。しかもそれらに自分の意思が及ぶことはない。自然災害はその最たるもので、それゆえ私たちは祈るのだ。祈らざるにはいられないのかもしれない。自分にとって良きことが起こるようにと。奇跡的な偶然が起きた体験を持っている人は多いのではないだろうか。筆者にもそういう体験がある。神様への感謝とお礼を忘れずにいたいと思う。小惑星から砂を持ち帰ることができるようになった2 1 世紀に生きる私たちは今日も祈る。

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